師 石井小浪先生

師 石井小浪 先生 Konami Ishi

師 石井小浪 先生
1905年
3月15日東京に生まれる
1916年
11才、兄・石井漠に師事。ともに我が国創作舞踊の黎明を形創る
1922年
15才、漠と渡欧、各地の海外公演にて「象牙の優美さとなめらかさの踊り手」と賞賛され、名声を確立
1925年
ニューヨーク公演
1928年
漠より独立、舞踊創作に没頭
1930年
石井小浪舞踊研究所(自由ヶ丘)設立
盛んな創作、公演活動により現代舞踊芸術の旗手となる。
「展覧会の絵」「子供の情景」(戦前)、「業火」「夢物語」(戦後)などの舞台は、世に鮮烈な感動を与え、その芸術は次第に孤高、純粋、幽玄の極に達する。同時に児童舞踊の創始、発展に勉めその斬新さは 児童舞踊を芸術に高める。長い芸術芸術活動中に育てた多くの門下生は、現在我が国を代表する舞踊家として、モダンダンス・クラシックバレエ・児童舞踊の各分野で活躍。
1978年
2月9日没 享年72才

「石井小浪生誕100年記念 現代舞踊作品展」公演プログラムより

現代舞踊創成期の大舞踊家 石井 小浪(いしい・こなみ)

 日本に西欧の舞踊が入ってきて約100年というところです。日本初の洋風の劇場として皇居のお堀端に建てられた「帝劇」(それまでの桟敷席の芝居小屋と違いすべて椅子席だった)の指導者にイタリア人のローシーが招かれます。彼は日本人にバレエを教えました。その生徒のひとりに石井漠がいました。彼はローシーの尊大な態度とバレエの決まりきったテクニックの窮屈さに反発して「帝劇」を飛び出し、自分の思いのままに踊り始めます。大正5年(1916年)のことです。そうして彼は日本の現代舞踊の創始者となりました。
 大正11年(1922年)に、石井漠は自分の舞踊がヨーロッパで通用するものかどうか試してみようと思い立ち、海外へと旅立ちます。彼はパートナーとして当時まだ15歳だった義理の妹、石井小浪を連れていきます。二人の舞踊はヨーロッパ、アメリカで大評判となり、評論家たちは競って石井小浪の美しさを絶賛しました。
 大正14年(1925年)の帰国後、石井小浪は石井漠舞踊団のスター・ダンサーとして各地でもてはやされます。しかし、彼女は昭和3年(1928年)に舞踊団を離れ、独自の道を歩みはじめます。ソロ・ダンサーとして妙技を披露するだけでなく、舞踊教育に力を注ぐようになるのです。石井小浪の門下からは、日本を代表するバレリーナ谷桃子、マーサ・グラーム舞踊団のトップを踊ったアキコ・カンダといったスターが生まれました。そして舞踊教育の面では磐田市の佐藤典子、盛岡市の黒沢智子などを輩出しました。
 石井小浪は、明治38年(1905年)3月15日に生まれました。その生誕100年にあたり、彼女の輝かしい舞踊の核心となる部分を今に蘇らせる公演が行われますことは舞踊に携わる者にとってまことに大きな喜びです。

<舞踊評論家  山野 博大>

佐藤典子同門会だより「すきっぷVol.44」より

漠の内弟子時代 ~「石井小浪生誕100年記念 現代舞踊作品展」によせて~

 内弟子というのか書生というものなのか判然としないものの、私は石井漠家の居候でもあった。この居候は誠に忙しく、6時には起きて広いお稽古場の拭き掃除から家族が暮らす廊下からトイレまで拭いて回った。後から黒澤輝夫さんが入門してからは多少私は楽になったものの仕事が減ったわけではないのだ。
 石井家の朝は早く、奥様は6時には広いお庭でバラのアーチを作るのに一生懸命だった。たしか7時か8時にNHKの「名演奏家の時間」という音楽番組がラジオ放送され、石井家のあちこちにスピーカーが取りつけられてあるので、内弟子たちの耳には嫌でも素晴らしい名曲が吹き込まれていくのである。その解説者が堀内敬三であり、野呂信次郎であったから、あの調子に我々は自然に音楽洗脳された。
 弟子たちの朝食が終ると間もなく、漠先生のお部屋にご挨拶に参上し、今日一日の予定打合せとなり、続けて昨日からの口述筆記が始まる。先生は眼疾のためご自身が書くことが不自由なため、我々が筆記するのであるけれど、書き上げてから大きな虫眼鏡で原稿をご自身で校正されるので、字を間違えていたりすると大声で雷を落とされた。
 時間が来るとお稽古場で漠先生ご指導によるレッスンが始まるのだが、チケッティメソッドによるバレエレッスンからリトミック、漠メソッドに至るまで厳しい練習が行われる。
 第二次世界大戦敗戦後は日本国民総貧乏の時代であったから、石井漠舞踊団も旅から旅の地方公演が多く、進駐軍の慰問にも駆り出されたが、当時の地方公演は地元の興行師の手によることが多く、いわゆる文化団体の主催であっても、必ずといっていいくらい興行師とのいざこざがあった。
 昭和22年秋頃、群馬県燃料消費組合という団体主催の公演で組合のトラックの荷台に乗せられて群馬県大間々町へ行き「ながめ劇場」に出演したことがあった。当時の舞踊団員は踊るだけははなく、舞台作りから照明器材の取り付け、表の切符売場まで手伝う。で、私は売場に入って主催者と働いていたところ、急にガヤガヤと声高い一団が入ってきた。ドテラというのか綿入れというのか着物に半纏姿には驚いた、おまけに眉を剃り落として青い入れ墨がしてある。「おいおい、誰に断って興行やってるんだ、俺は日光の円蔵という親分よ」これには私も驚いた。講談や浪花節に出てくる国定忠治の子分で勇名を謳われたのが円蔵だけれど、江戸時代末期の人だから生きているわけがない。「とにかくお前さんの親分の石井漠に会わせろ」と言って引き下がらないので仕方なく楽屋に行き漠先生に「日光の円蔵さんが文句付けに来ました」といったら漠先生がプッと吹き出して「ばか、円蔵が生きているわけはないだろう」と笑ったが、後ろに立っていた円蔵さんが「三代目よ」といったので、私も笑いが止まらず困ってしまったが、「ま、円蔵さんお入りなさいよ」と漠先生に招じられ、結局芸術とはなんぞや、現代舞踊とはどういうものかと長々と講義をされ、さすがの親分も閉口し、後で旅館に彼から一升瓶入り日本酒が数本届けられたのである。あの時代、石井漠は「舞踊文化教育講座」と銘打って、日本中を公演して回り、石井小浪先生は全国の教育者に児童舞踊・教育舞踊を教え普及に努められたが、並大抵のことではなかったのである。磐田に佐藤典子先生が偉大な舞踊教育者として名声を高めていられるが、佐藤先生も私同様に小浪先生とご苦労を共にされたことを思うと。我々は戦友のような気がしてならない。
 佐藤先生門下の方々が先生を盛り上げて益々発展され師弟の素晴らしい関係が二世三世末代まで続けられるよう心から願ってやまない。

<緑川 潤>

佐藤典子同門会だより「すきっぷ」より

心を踊る舞踏詩

・・・前略・・・
心の奥底にあるものを見つめ、見極めて、舞踊表現する 人間の身体を言葉として心を伝える これが舞踊詩の世界です。
日本の現代舞踊の創始者 石井 漠、 石井小浪 ご兄妹により完成されたこの舞踊詩は世界に誇り得る日本人の舞踊なのです。
師 石井小浪先生はよくこんなことをお話し下さいました。
・・・“技術”それがすべてではない、目的(心)を伝える手法として技術が必要なのだよ。だからといってテクニックは二の次で良いと言うわけでは決してない。なぜならば、例えばどんなにすばらしい作曲があっても弾きこなす腕がなくては音楽にならないからね・・・・・・。

別名自由が丘修道院とまでいわれた小浪先生のお稽古場は、ピカピカに磨き抜かれて鏡のような床、壁には美術館のように数多くの画が飾られ、稽古場は舞踊によって自分を磨く道場であれ、と教えられた先生のお言葉どうり清冽な雰囲気の中で毎日のレッスンが行われていたのもなつかしい思い出です。

先年「こねこのムーのおくりもの」の舞台をご覧くださった江崎千萬人前静岡県文化協会長がこんな感想をお寄せくださいました。
“クラシックは技を見せるもの・・・モダンは心を伝えるものですね”と。
能楽の観世寿夫先生は世阿弥の言葉として“心から心へ伝ふる華”という言葉を残されました。私は小浪先生より頂いた“舞踊詩の心”を生徒たちに伝えていきたいと思います。
-心から心へ-

<佐藤 典子>

歴史があって今日がある 今 ここからの出発(たびだち)

2005年(平成17年)は石井小浪先生の生誕100周年にあたり、記念作品展を開催するはこびとなりました。
 『日本の舞踊の歴史に残さなければいけない大舞踊家(舞踊評論家山野博大氏談)』と評される石井小浪先生が遺された「心の踊り・舞踊詩」を広く皆様にご紹介するため、企画・制作責任を努めさせていただくことになりました。
 作品展では石井小浪先生の作品を復元・上演するとともに、石井漠門下の協力を得、80年の歳月を経ての共演も予定しております。
 本来、中央で公演されてしかるべき全国レベルの舞踊家の記念作品展ではありますが、あえて、地方都市・磐田を会場といたしました。
 当時、小浪先生ご自身「東京中心ではいけない。地域に軸足を置き創作活動をしていけ」とおっしゃっておられました。その教えを受け1950年に私が石井小浪舞踊研究所の支部を開設したのが磐田市でした。開設当時、まだ若い教師だった私を応援するため、小浪先生ご自身も幾度となく足を運ばれた地でもあり、今回の舞台にふさわしい地として磐田市を選定いたしました。
 この舞台は懐古ではなく、小浪先生が生涯をかけて究めていかれた「心の踊り」に触れ、現代のモダンダンスの中で忘れられがちな「生きることへのやさしさ」を感じ、学び、実践して欲しいという強い願いをこめております。
 奇しくも本年、私が(社)全国児童舞踊協会賞(チャコット賞)受賞の名誉にあずかりました。その原点である師への報告の想いをこめて「モモと時間どろぼう」を第二部に上演させていただきます。

歴史があって今日がある 今 ここからの出発

この舞台から未来に向かう力を感じ取っていただければ幸いです。

<2004.12.24 佐藤典子舞踊研究所  主宰:佐藤典子>